午前4時の水死体

酔いが回って火照る体を引きずる様にして、光忠は鉄の扉に縋った。

愛しい恋人はもう眠っている事だろう。……よもや、まだ帰らず仕事に忙殺されている訳ではあるまい。衣ずれの音を立て、白い息を吐きだす。携える仕事用の鞄から取り出した鍵を差し込み回すも、どうやら鍵は開いているようだった。
「……不用心だな」
行きに鍵は確実に閉めたものだから、十中八九恋人は帰っているに違いない。しかしそれは余りに彼らしくないと思ったのだ。

光忠の恋人である長谷部国重という男は、自分自身には疎いが周囲へは一等気を配る男である。飲まず食わずで仕事に取組み、三日三晩寝ずに働く事もある。自己管理は怠る割に、色々な壁を乗り越え同棲を始めてからは、案外家事炊事は出来るという事を知った。それに驚き思わずその事をありのまま伝えると、彼は綺麗なその目を丸くし、頬を紅潮させ視線を彷徨わせながら
「だって、お前にばかり負担をかけてはいけないだろう。いくら、同棲、しているとはいえ。」
と言ったものだから、堪らずに抱きしめたものだ。

閑話休題。

少なくとも、今鍵が開いている事は事実であるから、その事に疑問符を浮かべながらも鍵を引き抜いてドアノブに手を掛け引いた。男二人暮らしの小さな玄関には、外向きに揃えられた彼の革靴が一組。明かりが点いている訳でもなく、どうやらつい今しがた帰ったものだから鍵を掛け忘れた、と言う訳でもなさそうだ。
上がり框かまちの隅にいつも通り置かれている彼の鞄が、いつもと違い横に倒れているのが目に付く。それこそ、普段自分以外の事に対しては几帳面な彼らしくなく、慌てていた、とも形容しがたい光景。

――ふと、胸中がざわつく感覚を覚えた。

しかし、それも自身が飲み過ぎたせいなのだろうと思考を放棄し、そう思い込むことにした。
そう、ただの思い込み、考え過ぎ。
彼は普段ずっと働いているから、倒れた鞄も直す気を無くすくらい眠かったんだ。とか。
今日はどうしても飲み会を断れなくて、その事をメッセージで送ったら淡白な返答しか返って来なかったけれど、本当は寂しく思ってくれているのかも。とか。
誰が聞いても都合が良すぎると言われそうな思考だが、酒の回る頭ではそんな事しか浮かばないのだ。……そうしか、考えたくないというのが本音なのだろうが。

なんにせよ酔いが回ったまま眠るのは良くない、と靴を脱ぎ洗面所へと向かう。
暗くも慣れた廊下を千鳥足で歩きつつ、彼がいるはずなのに何故だか静かな部屋が少々恐ろしく思えた。
「長谷部くん、ただいまぁ」
浮ついた声で帰宅を告げるも、返答はない。これは泥のように眠っているのかもしれないと思えば、早くその隣で眠りたい衝動に駆られた。
明日は休みだけれど、彼はどうだっただろうか。滅多に休みのない彼だけど、最近休みで彼が家にいた記憶がないから、そろそろ休みになるかもしれない。
そうならいいなぁ、と儚い期待を抱きながら洗面所の引き戸を開くと、暗いその扉のさらに奥、浴室の扉が閉まっていた。
普段換気の為に開いている折れ戸が閉じている、という事は誰か――といっても彼か自分かのどちらかしかないけれど――が入浴しているに他ならない。
だが、折れ戸のすりガラスの向こうは暗いままでシャワーの音も、何もしていなかった。浴室の明かりを点けるスイッチは外にあるから、そのまま寝落ちしているという事も考え難い事だった。
「……長谷部くん?」
光忠は何かに怯える様にその手を折れ戸に伸ばす。酔いは一瞬にしてどこかへ行ってしまったようだった。
ぎぃ、とレールが軋むような音を立てて折れ戸が開く。ぴちゃ、と微かな水音を立てて浴槽の縁を水滴が伝い落ちていく気配がした。
震える手で明かりを点け浴室を覗き込むと、

水の溜まった浴槽に膝を抱えて沈む、恋人の姿がそこにあった。

「っ、長谷部くんっ!」
咄嗟に浴室へ飛び込み、浴槽から恋人の体を引き上げる。溜まった水は、痛く感じるほどに冷たかった。今の時期、外にいてもここまで冷えないだろうという程、着衣のまま水に浸かっていた体は冷たく冷えきり、果たして彼は生きているのだろうか、さては死んではいまいかと恐怖を覚える。
「長谷部くん、ねぇ、長谷部くん、お願いだから、息をしてよ」
恐怖に駆られるまま、水を飲んだのかもしれないと背を強めに二度、三度と叩く。そうしている内に、腕の中の恋人が酷く噎せ水を吐き出した。
「やっぱり。ほら、吐けるだけ吐いて。冷えてるから暖かくしなきゃ。それから、救急車も呼ばないと」
強めに背を叩きつつ、時折優しく摩る。冷え切ったままでも、掠れる様な細く聞こえてくる息が、今確かに生きているのだと少しだけ安堵をもたらした。

何時までそうしていただろうか。彼が吐けるだけ水を吐いた後、そっと横抱きにしてリビングへと足を向ける。ひゅう、ひゅうと鳴る呼吸がいつ止まってしまうのか不安で、リビングへ続く扉を蹴り開ける様に開いた。押し開き扉で良かったと思う瞬間だった。こんな事でそれを実感なんてしたくなかったけれど。
同じように寒いリビングに敷いた柔らかなラグの上に一度寝かせ、着衣を乱す。水を吸って重くなった衣服を剥ぎ取り、慌てて暖房をつけた。
一瞬目を離す事すら恐ろしかったけれど、「すぐに戻るね。」と聞いているかもわからない恋人へ声を掛け、洗面所の洗濯機の中へ濡れた衣服を一先ず投げ込み、寝室から彼の寝間着やタオルを持って駆け戻った。
「長谷部くん。……長谷部くん」
目を離した僅か一瞬で彼は目を覚ましていて……なんて漫画みたいな事は起こらず、彼はラグの上で目を瞑ったままだった。少しの間で効き始めた暖房が良かったのか、胸が上下しているのが暗い部屋でもわかって、ホッと息を吐き出した。
そっとその体をタオルで包み、水滴を拭う。全身から水気を拭い、寝間着をそっと着せ終えると、漸く愛しい恋人の声が聞こえた。
「……さむ、い……」
「!長谷部くん、良かった、…目が覚めたんだね。今、救急車を呼ぶから」
冷えた体を何とかしたい一心で後回しになっていた電話をしようと腰を上げれば、伸びた恋人の腕が光忠の服を掴みそれを留めた。
「……いい、……いらない……」
「どうして、こんなに冷えてるんだ。このままじゃ死んじゃうだろ」
「いらない、から……ここ、に。そばに、いてくれ……」
先程までの事のせいだろう。けれど、こんなに弱った恋人の姿は付き合って初めて見たかもしれない。薄く開いた目がろくに光を見せることもないままに光忠を捉え、弱々しく口にされた言葉を無碍にできる訳もなく、浮かせた腰をその場にまた下ろした。
「……どうして、って聞いてもいいかい」
「……びょういんへ、つれられて……どうして、と、きかれて。……しにたいやつが、すくわれてきた、など……めいわくになる……」
「馬鹿。……君が死にたいと思っても、僕は生きてほしいんだよ。他でもない君に」
本当の馬鹿なのだと思った。そうして、それすら愛おしいと感じる自分自身をぶん殴ってやりたくて仕方がなかった。

仕事なんて辞めてしまいたがっている事も、世話になった上司の為に辞められない事も、その為に寝食を削って仕事に勤しむ事も、けれど気持ちだけで乗り切れる訳もなくて死にたいと時に口にすることも、全部。全部知っている事ではあった。結局は彼を尊重しているふりをして、それを見て見ぬふりをしている自分の事も。
全部分かっていて、こうしている間にもまた自覚してしまって、狡い人間だと少し自嘲した。

「……みつただ」
「……なんだい」
「……おれは、ひつようと、されているだろうか」
「当たり前だろ。君が必要な人は、少なくともここに一人はいるよ」
当たり前の事を答えながら、彼の様子を伺う。そっと手を触れ合わせ絡めた指先は、相変わらず冷え切ったままだった。嬉しそうに目尻を緩ませた視線が自身を射止める。けれどその瞳は、嘘を吐かなかった。
「みつただ、すまない……」
「なぁに?」
朦朧としているのだろうその瞳は、それでも真剣な目をして見つめてくる。だから自身も、彼を苦しみから自由にしなければならないと、腹を括るほかなかった。
「もう、むりだ」

「死にたい」。

そういう彼の声は未だ震えていて、けれどそれは過去にも聞いた震え声だった。限界が近くなった時、恋人は死にたい、と零す。他者が現実逃避に口にするその言葉より、遥かな重みを持って。その度に光忠はそれを諌めてきた。
自分勝手だけど、君には生きていてほしいんだ。君と生きていたいんだ。と。そう答えるたびに、彼は泣き、苦しみ、それでも最後には笑って、「なら、共に生きていよう。」と答えるのが二人の常であった。
彼も、いつものような答えが返ると思っていたのかもしれない。しかし光忠にとって彼の「死にたい」は、もうどうにもならないものとはっきり理解してしまった。
だから今日は、常とは異なった。
「じゃあ、このまま一緒に死んでしまおうか」
その言葉を聞いた恋人は、少し驚いた様子で目を見張った後、それはそれは嬉しそうに目を三日月の様に細めた。
「いいのか?」
「君のいない世界で、僕に生きる意味はないよ」
「いっしょに、来てくれるのか?」
「死んでも、離れたくないな」
絡めた指先をきゅ、と握ると、恋人は漸く寒さを自覚したのか、小さく震え歯を鳴らしながらも破顔した。
「ねぇ、どんな死に方がいいかい?」
「……この部屋なら、どこでも。……お前とくらした、この部屋なら」
「あはは、じゃあもう一度湯船に沈もうか?きっと二人なら、そこまで寒くないよ」
「……頭まで、しずむのがたいへんそう、だ」
「ほら、同棲し始めてすぐの頃は一緒に浸かっただろ?あの時みたいに抱き合えばきっと浸かれるよ。そうしたら苦しくなって顔を上げそうになっても、互いに沈められるし」
そういえば、同棲を始めてほんの二月、三月で恋人らしい事も殆ど出来なくなってしまったのだと、少しばかり懐かしんだ。直近の恋人らしいことと言えば、触れる程度の口付けくらいだっただろうか。
「なら、そうしよう……もう、このまま、」
「じゃあ抱っこして、浴室までまた連れて行ってあげるよ」
そう囁くように口にすると、恋人はそっと腕の中で身を摺り寄せた。
いっそ思い切ってしまえば、こんなにも甘えて恋人らしい時が戻るのだと思うと、ほんの少し笑い声が零れた。それを耳聡く聞きつけた彼は怪訝そうな顔をする。暗い廊下をまた歩き洗面所へ向かいながら、愛しい恋人の表情を目に焼き付けたいと視線を向け続けた。
「どうした……?」
「いいや、こうして早いうちに思い切ってしまえば良かったなって思っただけだよ」
心中を素直に伝えて、青紫になっているだろう恋人の唇へと自身のそれを触れ合わせる。触れるだけの口付けは、氷のように冷たかった。
「みつただ、あのな」
「なんだい?」
浴室に着くなり、未だ濡れる浴槽の縁へ彼を座らせる。そこだけ煌々こうこうと点いた明かりの下、冷え切って病的な程に白くなったその肌すら綺麗だと思った。
「死んだら、言えなくなるから。……いっしょに、死んでくれて、ありがとう。……お前を、愛せて、よかったとおもう……」
「……僕こそ。忙しい君の僅かな時間が、その体が、その心が、全て僕の物で嬉しかったんだ。今だって愛してるよ。変わらず」
その言葉を聞いて満足そうな笑みを浮かべた彼は、震え硬直する手足で器用に未だ水の溜まる浴槽に身を沈める。それに続くようにして、光忠も着衣のまま浴槽へ踏み入り身を沈めるなり、恋人を抱き寄せた。

ざぱり、質量に従って溢れた水が床で波を立てる。けれど、二人で浸かる浴槽に残る水は、それさえあれば死に至ることは容易だった。
「……長谷部くん」
「なんだ?」
「来世、ってあると思う?」
その問い掛けが無意味という事は、光忠自身が一番良く分かっていた。そんなものがあってもなくても、今選んだこの選択は揺らがないのだから。
「……さぁ?あってもなくても、今幸せだったことだけは、変わらない」
「だよね」
互いの思考が変わらないのだと気付くと、二人して笑みを浮かべた。
「……愛してるよ」
「……俺だって。愛している」
そのままそっと腕を引き抱きしめると、鈍い水音の後、視界が滲んだ。


初めて書いた作品でした。
鬱や死ネタ好きが高じた結果です。二人きりで終わる世界はとても美しいと思っています。